2009.03.31 (Tue)
「民意を問う」愚の正論ふたつ
産経新聞の2ランホームラン
最近変節したとよく言われている産経新聞が昨日と今日の二日にわたって久々に二つの正論を掲載したので、時間のない方のために要旨をご紹介したい。
常々Ponkoが思っていたことをズバリと言い表してくれている。
小沢代表は「国民の生活が第一」といい公明党も「民の暮らしを守る公明党」と国民におもねるキャッチフレーズで訴えている。
小沢代表は「民意に従う」と言いながら、小沢続投に反対する多数の「民意」に従おうとしない。
政治家は「国民」とか「民意」という言葉をあまりにも軽々しく使っている。
しかもその「民意」とは麻生首相がホテルのバーで高い酒を飲んでいるとか、漢字を読み違えたとか、「株屋」と言ったとか、およそ政策や国家観とは縁遠いゴシップで動かされているのである。
マスコミは為政者の言葉狩りと毎週僅か1000人足らずの世論調査を実施して政党や政権の支持率を発表し、世論を動かそうとしている。
マスコミは愚衆政治をさらに愚衆政治化しようとしている。
(閑話休題)
ひとつは3月30日付産経新聞のコラム「正論」の「『民意を問え』という政治暴論」(佐伯啓思京都大学教授)である。
●30年前と変わらず、日本の政治家は市民や消費者、労働者、国民、といった目に見えない集団の力におもねり、その力の前に平身低頭している。
●しかし「民意」は明確ではなく、せいぜい世論調査の結果だ。大きな政治的論点で民意は形成されていない。したがって、政治家は短期的な局面でいちいち民意に従う必要は無い。
●ところが、「民意」こそがすべてとなってしまった。小沢氏は「民意を無視する自民党」と「民意を反映する改革派」という構造を作り、民主党の主張はともかく「民意につく」ことになった。
●しかし、今日のような大衆化した社会では「民意」は情緒とスキャンダルと映像的な効果によって大きく動く。
●民主党も自民党も「民意」を絶対化してしまえば、政策対立する二大政党は不可能である。どちらも「民意」につこうとするからだ。
●この「民意」をめぐる綱引きは、政策論争よりもイメージと人気の争奪戦になるだけである。
●麻生政権に対して、「民意を問え」という声が強い。しかし、どの政策を「民意に問う」というのであろうか。今日の政治課題は、民意が反映されていないことではなく、政治を「民意」に預けることで政治家が政治から逃げている点にある。政治とは政治理念を打ち出して、それこそ「民意」を動かす指導行為だからなのである。
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090330/stt0903300331002-n1.htm
政府は愚民の民意におもねらず、外交・防衛・福祉・経済について大局的な視点から国策を講じるべきであり、来るべき衆院総選挙でもその視点を民主党と戦わせるべきである。それで負けたら、その責任は国民の上に大きな不幸として降りかかってくるだけである。その時に国民がしまったと思ってももう遅い。
もうひとつは尊敬する葛西敬之JR東海会長の今日の「改革あれこれ」欄の「民意と民主制」である。
●最近の日本の政治は大衆迎合に堕している。その責任はマスメディアの報道姿勢にもある。
●新聞やテレビの内閣支持率や支持政党の世論調査は政府や与党の政策に対する「民意」の審判として扇情的に報道されている。
●政治の場において個々の意思は器を持たない水と同様に各人各様、時々刻々変化して定まらない。
政府は4年間の任期中の個々の行動で国民に伺いを立てるのではなく自らが国益と信ずる所に従って最善を尽くし、その結果を選挙で問うのが民主制の基本ルールである。
●近頃のように頻繁に1000人程度の行い、その結果を見て「民意」の信任があるとかないとかあげつらう風潮は民主主義の否定でしかない。それに振り回されると政治は定見も一貫性も無いきりもみ状態に陥る。
●県や市町村レベルの住民投票もそうだ。原子力発電所の建設、米軍基地の維持・移転問題、産業廃棄物処理施設の設置など、本来は県や市町村単位のエゴに委ねられるべきではない。
●ところがマスコミはそれを「民意」と称して国政レベルで「民意」の信任を得た政府に圧力を掛ける。政府がマスメディアに配慮して尻込みすれば日本の安全保障もエネルギーの安定供給も奇胎に瀕する。
●マスメディアは「民意」が信任した政府の任期中は任せるという基本的姿勢を堅持すべきであり、国益に関わる問題については、地域のエゴを「民意」だとしない節度を持つべきである。
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090331/stt0903310308000-n1.htm
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最近変節したとよく言われている産経新聞が昨日と今日の二日にわたって久々に二つの正論を掲載したので、時間のない方のために要旨をご紹介したい。
常々Ponkoが思っていたことをズバリと言い表してくれている。
小沢代表は「国民の生活が第一」といい公明党も「民の暮らしを守る公明党」と国民におもねるキャッチフレーズで訴えている。
小沢代表は「民意に従う」と言いながら、小沢続投に反対する多数の「民意」に従おうとしない。
政治家は「国民」とか「民意」という言葉をあまりにも軽々しく使っている。
しかもその「民意」とは麻生首相がホテルのバーで高い酒を飲んでいるとか、漢字を読み違えたとか、「株屋」と言ったとか、およそ政策や国家観とは縁遠いゴシップで動かされているのである。
マスコミは為政者の言葉狩りと毎週僅か1000人足らずの世論調査を実施して政党や政権の支持率を発表し、世論を動かそうとしている。
マスコミは愚衆政治をさらに愚衆政治化しようとしている。
(閑話休題)
ひとつは3月30日付産経新聞のコラム「正論」の「『民意を問え』という政治暴論」(佐伯啓思京都大学教授)である。
●30年前と変わらず、日本の政治家は市民や消費者、労働者、国民、といった目に見えない集団の力におもねり、その力の前に平身低頭している。
●しかし「民意」は明確ではなく、せいぜい世論調査の結果だ。大きな政治的論点で民意は形成されていない。したがって、政治家は短期的な局面でいちいち民意に従う必要は無い。
●ところが、「民意」こそがすべてとなってしまった。小沢氏は「民意を無視する自民党」と「民意を反映する改革派」という構造を作り、民主党の主張はともかく「民意につく」ことになった。
●しかし、今日のような大衆化した社会では「民意」は情緒とスキャンダルと映像的な効果によって大きく動く。
●民主党も自民党も「民意」を絶対化してしまえば、政策対立する二大政党は不可能である。どちらも「民意」につこうとするからだ。
●この「民意」をめぐる綱引きは、政策論争よりもイメージと人気の争奪戦になるだけである。
●麻生政権に対して、「民意を問え」という声が強い。しかし、どの政策を「民意に問う」というのであろうか。今日の政治課題は、民意が反映されていないことではなく、政治を「民意」に預けることで政治家が政治から逃げている点にある。政治とは政治理念を打ち出して、それこそ「民意」を動かす指導行為だからなのである。
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090330/stt0903300331002-n1.htm
政府は愚民の民意におもねらず、外交・防衛・福祉・経済について大局的な視点から国策を講じるべきであり、来るべき衆院総選挙でもその視点を民主党と戦わせるべきである。それで負けたら、その責任は国民の上に大きな不幸として降りかかってくるだけである。その時に国民がしまったと思ってももう遅い。
もうひとつは尊敬する葛西敬之JR東海会長の今日の「改革あれこれ」欄の「民意と民主制」である。
●最近の日本の政治は大衆迎合に堕している。その責任はマスメディアの報道姿勢にもある。
●新聞やテレビの内閣支持率や支持政党の世論調査は政府や与党の政策に対する「民意」の審判として扇情的に報道されている。
●政治の場において個々の意思は器を持たない水と同様に各人各様、時々刻々変化して定まらない。
政府は4年間の任期中の個々の行動で国民に伺いを立てるのではなく自らが国益と信ずる所に従って最善を尽くし、その結果を選挙で問うのが民主制の基本ルールである。
●近頃のように頻繁に1000人程度の行い、その結果を見て「民意」の信任があるとかないとかあげつらう風潮は民主主義の否定でしかない。それに振り回されると政治は定見も一貫性も無いきりもみ状態に陥る。
●県や市町村レベルの住民投票もそうだ。原子力発電所の建設、米軍基地の維持・移転問題、産業廃棄物処理施設の設置など、本来は県や市町村単位のエゴに委ねられるべきではない。
●ところがマスコミはそれを「民意」と称して国政レベルで「民意」の信任を得た政府に圧力を掛ける。政府がマスメディアに配慮して尻込みすれば日本の安全保障もエネルギーの安定供給も奇胎に瀕する。
●マスメディアは「民意」が信任した政府の任期中は任せるという基本的姿勢を堅持すべきであり、国益に関わる問題については、地域のエゴを「民意」だとしない節度を持つべきである。
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テーマ : 政治・経済・時事問題 - ジャンル : 政治・経済
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